大川小の津波訴訟 石巻市と宮城県の上告棄却について

東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の児童23人の遺族が訴えた裁判で、最高裁判所は石巻市と宮城県の上告を退ける決定をし、14億円余りの賠償を命じた判決が確定しました。

最高裁は、震災前の学校と行政の防災対策に過失があったと認めた判断を維持し、今後、全国の教育現場の防災対策に影響を与えるとみられます。(NHK NEW WEB抜粋)

亡くなられた74名の児童の皆さんには深く哀悼の意を捧げます。

大川小は登米市からも比較的近く、特に気になるスポットではありませんでしたが、北上川河口近くで低いところというイメージは有りました。

震災時登米市も大きく揺れましたが、海抜5M以下の低地ではありますが、海から遠いので津波被害は有りませんでした。(当たり前ですね、30KM以上離れています。)

最高裁は学校と行政の過失と認定しましたが、学校を私的に分けて考えたいです。

教員たち現場担当者と県及び市の教育委員会にです。

当日大川小は校長が不在でした。よって、学校に最終責任者はいない状況でした。

震災後、多分教員たちは「県及び市の教育委員会」からの指示を待っていたと私は考えます。

勝手な行動をとると後で大変なペナルティが来ることを予期し恐れ大切な時間を消費してしまったのだと思います。

本来、校長は「学校経営者」であり、教師は「学級経営者」です。

現場の教職員に裁量が与えられていれば、多分結果はもう少し違ったものになっていたのではないかと思うわけです。

学校特に亡くなられた教職員に全ての責任を押し付けるのは大変むごい仕打ちです。教員の遺族の心中を思うと居た堪れない気持ちになります。

今後も震災は発生すると思われます。現場の裁量を認めるか、もしくは徹底したルールづくりをお願いしたいです。

「しょうがない事」「1,000年に一回の不幸な出来事」で片づけず、亡くなられた方々から貴重なメッセージ(教訓)として今後に活かしていきましょう。

最後に、先生が「教師」から「教員」になったのはいつからなのでしょうか。そこが現場から裁量が奪われた時と重なるような気がしてなりません。

先生は「サービス業」では無いですよ、自信と責任をもって教育現場で活躍して下さい。

上は、震災時の登米市の状況、比較的柔らかいのを選んで載せました。

こちらは登米市民病院、南三陸町からも被災者の方が運ばれてきていました。 

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